読書感想文、どうやって書いてる?
こんにちは。弥栄です。
今日はみんなが苦手にしているアイツ、読書感想文についてです。
生徒の皆さんの参考になればと思います。そして、できれば国語の先生の指導にも役立ててもらいたい。
読書感想文って、そんなに怖いものではありません。でも、なかなか取りかかれないですよね。書く方も、指導する方も一苦労です。今回はそんな読書感想文に少しでも気楽に取り組んでもらいたいと思ってまとめてみました。
ネット丸写し問題
いわゆる「夏休みの読書感想文」の扱いは各校で違うでしょうが、私の勤務していた高校では、
- クラス担任が一通り目を通し、優秀だと思われる作品をクラス代表として3〜5作品ピックアップ
- 国語科でさらに吟味してから数作に絞る
- 「読書感想文コンクール」に応募する
という形でした。ここで担任の先生の目を通して上がってくるものの中には、そこそこの数の
- 「ネットから感想文を丸写し」
- 「コミカライズされたのを読んで書いた」
- 「映画化されたのを見て書いた」
- なんなら「ネットにある映画評を読んで写した」
というものが混じっていました。(感想文屋さんに頼むような生徒はいなかったと思います。学校の宿題ごときにお金を払う子がいるとは考えにくい学校でしたので。これも学校によると思うけど。)
なんとか文字数を埋めるために縋る思いでネットの大海に乗り出すのでしょうが、だいたいわかるものです。国語科教員なら。
一度それで担任と揉めたことがあります。
僕はこの子が書いたと思いますけどねえ!
そんな悪いことをするヤツじゃないですよ!
という担任に
いやいやこの子の語彙力とマッチしてませんから。
そもそもこの単語、ほら写し間違いですよ。自分が知ってる単語だったらこんな風に間違えないでしょ?
というような押し問答。やっぱり丸写しだったという一件でした。(検索したら見事にヒットしました。担任は「生徒を疑うなんて」と憤慨していましたが、不正を許すわけにはいきませんし、これを応募作品にしたら大変なことになります。)
「感想文の書き方について習ってないのに感想文を書けというのは難しい」と良く言われます。
とはいえ、本当に習っていないのでしょうか。
そもそも国語の学習の過程において感想文を書いて単元の締めくくりとすることは良くあるので、感想文を書いたことがないわけでもないはずです。
ではなぜ丸写し問題が起こるのか。
ひとえに
- 文字数にビビっているから
- 楽しい作文の経験が少ないから
だと思うわけです。
これは作文のトレーニングをコツコツ行ってきたかどうかということに繋がるのですが、小中学校で「作文」という授業がないので、現状これは難しい。だからいきなり2000字と言われたら怯むのでしょう。
映画鑑賞文と漫画鑑賞文をないがしろにする罪について
私がここで言いたいのは「読書感想文」を書かないヤツが悪いとか、そういう話ではありません。
「映画鑑賞文と漫画感想文を蔑ろにしているという罪について」です。
私はとにかく映画を見たり漫画を見たりして「読書感想文です」と偽って出してくるのが大嫌いでした。なぜって、映画と漫画を冒涜しているじゃないですか。
映画を見たなら、その感想としては
映像の美しさ、
カット割りの工夫、
絶妙なタイミングで挿入された音楽の素晴らしさ、
そして俳優の演技力、
セリフとセリフとの間のタメ
そういうものに言及しなくちゃダメでしょう。
漫画を読んだなら、
コマ割の工夫、
線画の美しさ、
引きとアップのバランス、
モノローグの使い方、
ぶち抜きの大ゴマの迫力
などを熱く語らないとダメでしょう。
それをやらずに「ストーリーだけ」を追って、それについてのみ語る。無理があるし、映画にも漫画にも失礼この上ないと思うわけです。
無意識的なストーリー偏重主義
逆に言えば、小説などを読んだ際の感想文についても、「この表現が美しい」ということについて十分に掘り下げる授業をしていないということです。それは詩や短歌・俳句といった単元ばかりに集中して行われており、小説やエッセイ、何なら評論においては「その表現がなぜ選ばれたのか」ということはあまり考えさせる機会がない。
小説を読んだら、注目されるのは「登場人物の心情」が主となります。それは当然と言えば当然のことなのですが、小説の楽しさはそれだけにとどまるものではありません。
描かれているのは「光」なのか「輝き」なのか「煌めき」なのか「閃光」なのか、作者はなぜその表現を選んだのか。そういうようなことにも注目した方が絶対に面白い。
その小説を読んだ時に感じた匂いや風や温度、湿度、そういうものについても言及した方が感想文は楽しいのです。
そして、それも入れ込んだ方が文字数は伸びる。こういう「発見」を書くと、意外なほど原稿用紙は埋まっていきます。
知らないうちに「感想文の悪い書き方」を刷り込まれている!?
巷にあふれる「読書感想文ワークシート」がダメダメな点
最近は「読書感想文の書き方についてちゃんと習っていない」という意見が多いことを心配したさまざまな学習教材出版社が「読書感想文書き方シート」を夏休みの宿題に織り込んでくれるようになりました。
それだけでなく、ネットで「読書感想文 書き方 シート」と検索すれば、驚くほどたくさんのワークシートがヒットします。
でもダメです。これらのワークシートは大抵、
- 私は〈 〉を読みました。
- 私がこの本を読んだきっかけは〈 〉です。
- いちばん心に残っているのは〈 〉が〈 〉というところです。
- なぜなら〈 〉だからです。
- もし私だったら〈 〉と思います。
- 私はこの本で〈 〉ということを学びました。
- これから〈 〉したいと思います。
こんな感じなんですよね。
ストーリーにしか注目してないんです。
そして必ず何かを学ばなくちゃならなくなっている……!
読書をしたら必ず学ばなくちゃならないなんて、そんなことがあるでしょうか。
なんて説教くさいんでしょう。嫌だ嫌だ。
諸悪の根源は「ごんぎつね」と「羅生門」?
うちには小学生の娘がいるんですが、ある時作文で「ごんぎつねのその後」なるものを書いていて、私はひっくり返りました。全員が書いて、いろいろな意見を発表するのだそうです。
「ごんは実は生きていました。そして、兵十といっしょに仲良く暮らしました」
なんだとーーーー!!!!
あの「ごん、おまえだったのか」に込められた兵十の思いが全部なくなってしまってる!
取り返しのつかないことをしたという絶望、悔恨、労り、愛情、感謝、そのへんのぐちゃぐちゃに混ざった兵十のあのときの気持ちを、小学生はどう味わい、どう消化するのか。
それこそが「ごんぎつね」を扱う醍醐味でしょうに。
あかん、これはあかん・・・こんなことやってたのか小学校・・・私は青ざめました。
しかしここではたと気づきました。私も以前、似たようなことをやっていたのです。
それは「羅生門」。
「下人の行方は、誰も知らない」
で終わるこの小説の感想として、私は昔「下人はその後どうなったと思いますか」と質問し、それを感想文として書かせていたのです。(若かりし日の私に尋ねたら、「だって指導書にそう書いてあったし…」と言うでしょう。)
「悪いことをやってきたのだから、同じように酷い目に合わされて死ぬ」 「これがきっかけで、もっと悪いことをして生きていく」 「せっかく老婆から着物を剥いで逃げたけど、全然売れなくてのたれ死んだ」
そうだった……。
私は深く反省しました。
「解釈」はあっても良いけど、「二次創作」はダメです。作者の紡ぎ出した世界を壊すようなことをしてはいけません。感想文は、それを考慮した上で書くべきなのです。
そして、この状況はストーリー偏重主義とも言えると思いました。話の筋だけに小説の面白さを求めている、そういう指導だと思ったのです。
羅生門のラストシーンであれば、「黒洞々たる闇」が読者にもたらす印象について、もっと吟味して味わうべきだったのです。
「闇」を表す言葉がどれくらい使われているか。どの場面で使われているか。そういう視点で振り返ると、「黒」「影」「烏」などが暗示的に出てきているのではないか。(伏線ってやつを探すわけですね。)
そういう視点を持って文学作品を読んでほしいし、映画やアニメや漫画を楽しんでほしい。そしてそれを言語化するのが感想文であり、鑑賞文なのだと思います。ストーリーに絞って作文するより、書くことがたくさんあって楽しいんじゃないかな、と思うのです。
前編まとめ
そういうわけで、前編をまとめると次のようになります。
後編はいよいよ「どうやって書くか」です!
具体的にみていくよ!