今年も人権週間があったらしい。そして終わってしまった。
終わってしまったので少々時期を逸した感があるけど、でも書いておこうと思う。それは「人権標語」についてだ。
わが市には「人権標語コンクール」なるものがある。小中学生に人権についての標語を考えて応募させ、表彰するものだ。
おそらくここだけではなく、日本のあちらこちらにこういった「人権啓蒙活動の一環としての小中学生への標語コンクール」があるのだと思う。
私はこの活動に2つの意味からかなりの不信感と嫌悪感を持っている。
味わいのない5・7・5を量産する罪について
ひとつめ。
なんで「標語」といえば5・7・5を作ることになっているんだろうね?
標語はべつに5・7・5でなくてもいいのだ。
要するにキャッチコピーなのだから、「生きろ。」だっていいのだ。もののけ姫のように。
それがいつからか、標語と言えば5・7・5になっている。とくに小中学生はそう思い込んでいる節がある。
確かに語呂は良い。覚えやすい。
私たち日本語話者に幼い頃から刷り込まれた五七調と七五調のリズムが、ごく自然と5・7・5の標語を作らせてしまうのはわかる。
だけどさあ!
私としては、5・7・5は俳句であってほしいのよ。
お~いお茶のティーバッグを愛用している。そのパッケージに書かれた可愛い俳句。その中には季語がないようなもの、思い切りよく季重なりになっているものなど、いろいろ混ざっている。それを毎朝眺めながら「まあ、入り口としてはこれで良いんだろうなあ」と自分を納得させているわけだが。
が。
標語はまた違うのよ。
くだらねえことに5・7・5の拍子を使うんじゃないよ、という気持ちになるのよ。季語がねえじゃねえの、と思っちゃうのよ。季語がなければ川柳ってことじゃないの、と言う人もいるかもしれないが、川柳と標語はやはり違う。
標語として書かれた5・7・5は標語以外の何物にもなれない。だってそこにはゴリゴリの主張しかない。味わうポイントがないのだ。
さらに、どうしても5・7・5で収めようとするから「ね」とか「よ」とかがめちゃめちゃ入ってる。「元気だね」とか「いけないよ」とか。
それならまだましだが、ひどいのになると「クラスはね」とか「明日はね」とか、要らんところに終助詞が入る。
まあこれが小学校低学年の5・7・5のリズム覚えたての小さな子たちの習作であればかわいらしいものだが、小学校高学年から中学生に至ってもこれをやられるとさすがにげっそりする。
もっと他に5・7・5の味わい方があるやろ…大事にしてくれ…と思うわけだ。
しかし確かに5・7・5は覚えやすい。
そういう意味で標語に選ばれるのはわかる。わかるけど絶対5・7・5にしなくちゃならないわけではないのだ。
そのへん、子供たちに誤解があるように思う。そして、一緒に考える親にも。
せめてうまい例をだしてくれないか。そうしたら5・7・5への偏りは少し減るのではないかな。
「人権」って「標語」にするものなのか?
もう一点、こちらが本題。
毎年表彰されている優秀作品を見てみると、
「いじめはやめよう」
「なかよくしよう」
「あいさつしよう」
「ほかの人の気持ちになって考えよう」
みたいなものばかり。(「いじめはね ぜったいやめよう みんなでね」みたいな5・7・5になってる)
つまり、
「人権は個々の努力により守られるべき努力目標である」
「いじめは人権を無視しているからしないようにしようね」
という内容のものが多いのだ。
ちがーーーーーーーーう!!!!!
人権は努力目標ではない。
生まれ持っている権利なのだ。
だから、「いじめをしないようにしようね」
ではなく、
「一人ひとりが持っている人権は行政によって守られるべきである」
「いじめのような人権侵害が起こっていて、それを放置しているとしたら、行政が憲法違反をしているのである」
ということなのだ。
つまり、児童生徒に標語を書かせて「いじめをする・しないは自分たちの責任、人権のことを考えて努力しよう」と思いこませるのではなく、「人権は何人たりとも侵害してはならないものだ、君たちの人権は絶対的に守られている、もし人権侵害が起こっているならさっさと通報しろ」と教えるべきだと思うのだ。
そういうわけで、私はわが市の人権標語コンクールにめちゃくちゃ嫌悪感を持っている。
と、ここまで書いたところでふと気になり、他県の人権標語の取り組みを見てみた。
人権標語で画像検索すると、出てくる出てくる、さっき言ったような5・7・5がたくさん。これさあ、「思いやり推進標語」なんじゃないの?
「人権」という言葉をそんなところに使わないでほしい。
人権は愛や思いやりで個人的になんとかするもんじゃないんだよね。
だって、愛や思いやりって、心に余裕がないと生まれない。
そうではなくて、人権とはいついかなる時も、この世に生まれたものであれば絶対に守られ尊重されるはずのもので、それは個人が努力するようなことではないのよ。心の余裕に左右されてはいけないものなんだよ。
もちろん、なかには唸るほどうまいものや鋭い視点のものもある。
見た中にはDE&Iの観点から書かれているものもあった。
標語全てが悪いわけではないのだ。うまくすると、「人権とは」という知識を植え付けるのに役立つとも思う。
しかしそれは、きちんと「人権」というものに向き合い、丁寧に指導した上でなくてはならない。指導する側もこどもも親も、みんなが「人権」を理解する機会があってこそ。
それなのに「標語コンクール」でこどもに丸投げしてるから適当なものばかり生まれるんだと思う。
しかしうちの子も「宿題だから一緒に考えて」と言う。
このジレンマ。
「おかあさん国語の先生だったでしょ、いっしょに考えて」と目を輝かせた娘に、「これはダメな宿題だからやらなくてよろしい」とは言えない。かつて教員だった者としても、私のこの嫌悪感を娘に伝染させて、学校への不信感につなげてはいけない。
で、どうしたか。
5・7・5・7・7のリズムで「人権は生まれながらにしてみんなが持っているものだ」という内容の標語をつくって出したのだった。
……われながら中途半端なヘタレであった。
しかしこれ、いつか意見したい。子どもの担任にはちらっと言ったことあるけど、担任に頑張ってもらうような内容ではない。なにせ市の取り組みなのだ。市長かなあ…教育委員会かなあ…校長会かなあ…あ、PTA連合会かもしれないな。
意見を言ったところで、通じるのかな。何言ってんだとか思われそうだな、と二の足を踏んでいる。
とにかく、いじめ撲滅と人権を守ることはこどもの努力目標じゃない。
大人の仕事なんだよ。
履き違えている人、多いんじゃないかな。